能の歴史
奈良時代に大陸から輸入された散楽(さんがく)は、曲芸、軽業、奇術、歌舞などの雑多な芸能であったが、平安時代には滑稽な物真似が主流となり、猿楽(さるがく)と呼ばれ、時代を経て台詞喜劇としての狂言と、まじめな歌舞劇の能に分化していく。
大成前
能はかつて猿楽と呼ばれた。猿楽のルーツは外来系の散楽であるとされる。
散楽-猿楽のルーツ
散楽は奈良時代に中国から渡来した。
中国では民間雑芸の総称で百戯(ひゃくぎ)とも称され、器楽や歌謡、舞踊、物真似のほか、曲芸軽業、奇術魔法なども含む幅広い芸態をもつものであった。
日本では「散楽戸」が置かれ国家の保護を受けて演じられていたが、平安初期にこれが廃止されると、役者たちは各地に分散して集団を作り、多くは大きな寺社の保護を受けて祭礼などで芸を演じたり、あるいは各地を巡演するなどしてその芸を続けた。
散楽はやがて日本風に猿楽/申楽(さるがく)と呼ばれるようになった。
「散楽は滅びましたが、奈良東大寺の正倉院に遺る『墨絵弾弓』などの散楽図(図7-2)を見ると、楽器の伴奏で演じる曲芸軽業的なものや奇術幻術的なものが主であったようです。」(p.104)
猿楽
平安・鎌倉時代に栄えた芸能で、散楽の芸系を受ける。
平安時代に入って猿楽の中心は「笑いの芸能」に移り、平安末期の猿楽はことば遊びや物真似を主体とした滑稽な寸劇で、その発展したかたちが後の狂言である。
宮中でも演じられたが、主流は民間に流れ、職業的猿楽者が生まれた。
職業的猿楽者の多くは大きな寺院や神社などに隷属し、その祭礼などに奉仕していたので、密教的行法の中で従来は僧侶が行っていた芸能的要素の強い部分(呪師の芸など)を勤めるようになった。今日も別系統の演目として神聖視される「翁(おきな)」の原型である。
※呪師の芸:「じゅし」「しゅし」「ずし」などといわれる。
呪師猿楽 …僧侶の勤める法呪師の行法の威力を一般参詣人に対して具体的に演技化して示したもの。
華美な装束に兜(かぶと)をつけ、鈴や鼓を用いた軽快な歌舞であったようだ。
※翁:能の曲目。「能にして能にあらず」と言われ、どのカテゴリーにも属さず、物語めいたものもない。
神聖な儀式であり、演者は神となって天下天平、国土安穏を祈祷する舞を舞う。
(参照はこちらを https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_067.html)
さらに鎌倉時代に入ると、寺院での法会後の余興大会で演じられた延年風流(えんねんふりゅう)などの諸芸能の影響を受けて、猿楽は次第に、まじめな歌舞劇である能と、滑稽な台詞劇である狂言とに分離し、それぞれの芸態を確立していく。
鎌倉時代後半には多くの寺に所属した猿楽の座が、能という新しい歌舞劇を上演するようになった。
猿楽だけでなく農村の民俗から発展した田楽(でんがく)も能を演じ、芸を競い合っていた。
大成期
観阿弥と世阿弥
南北朝時代(1336~92)になると猿楽は歌舞劇への傾向を強め、諸国に猿楽の座ができた。
なかでも大和(やまと)猿楽と近江(おうみ)猿楽が際立っていたという。
大和猿楽には奈良興福寺に仕える4座があり、その一つの結崎(ゆうざき)座から能の大成者として名高い、観阿弥(かんあみ)が出た。
観阿弥・世阿弥父子らによって、猿楽は今日の能楽に近い姿に整えられ、能と狂言の交互上演の形式も定まった。
観阿弥(1333~84)は、結崎座(後の観世(かんぜ)座、勧世流)を創立した。
1374年初めて京都に進出、12歳の長男世阿弥(ぜあみ)とともに演じた能は、室町幕府の将軍足利義満に気に入られ、以後は絶大な後援を受ける。
座の属した大和猿楽の演劇性を基礎としながら、女性などの優美な役を得意とする近江猿楽や、田楽の歌舞性を取り入れて京都の貴族たちの趣味に合わせた幽玄な芸風をうち立てた。
《観阿弥の功績》
・物真似主体の強い芸風の大和猿楽に、田楽や近江猿楽の歌舞的要素を取り入れて、幽玄な美を中心に置いた。
・メロディー主流だった大和猿楽の音楽(小歌節(こうたぶし))に、リズム本位の曲舞(くせまい)の技法を導入。
・大衆の興味を引く生き生きとした能を書く。
観阿弥の子、世阿弥(ぜあみ)は、父の成果を受け継ぎつつも能をさらに高度な舞台芸術に仕上げた。
《世阿弥の功績》
・「夢幻能」のスタイルを完成した。
夢幻能(むげんのう):能で、主人公(シテ)が、神・霊・精など超自然的存在のもの。
全体がワキの見た夢か幻であるという構成になっているところからいう。(デジタル大辞泉 電子辞書版)
主人公が旅人に物語や身の上を語る筋立ての形式。
・『風姿花伝(ふうしかでん)』をはじめ、21部におよぶ芸術論を著述し、後世に大きな影響を与えた。
・数々の名作の創作
観阿弥と世阿弥は優れた役者であるばかりでなく、多くの名作を残した。
世阿弥没後も、甥の音阿弥や女婿の禅竹といった名手や理論家が輩出されたが、その能は本質的には世阿弥の継承であり、この時代すでに能は伝統を守り育てる傾向を強めていたと言えるだろう。
観阿弥・世阿弥という希有な人材を得て大和猿楽は高い地位を得たが、近江猿楽や田楽の能は次第に衰微し、やがて能といえば大和猿楽の能を指すようになる。
以上、能楽の大成期までを概観してきた。
歌舞物真似、曲芸軽業、奇術魔法など幅広い芸態をもつ散楽が奈良時代に中国から伝わる。
散楽は日本風に「猿楽」と呼ばれるようになり、内容も滑稽な寸劇を中心としたものになる。
南北朝時代の頃には、猿楽は歌舞劇へ傾倒する。
観阿弥・世阿弥親子によって能は芸術的に大成され、今日に伝わる姿に整えられた。
《参考》
月溪恒子『日本音楽との出会い―日本音楽の歴史と理論』東京堂出版, 2010.
ユネスコ無形文化遺産「能楽への誘い」https://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/noh/jp/history/history1.html
文化デジタルライブラリー 「能楽」https://www2.ntj.jac.go.jp
能楽協会ホームページ https://www.nohgaku.or.jp/encyclopedia/whats/stage.html
日本大百科全書(ニッポニカ) 電子辞書版より 散楽, 猿楽, 能, 観阿弥, 世阿弥, 大和猿楽, 呪師 の項。