遥かなる嗜虐心

男は、自宅へと急いでいた。夜も更け、時々車のライトが男を照らすほかは、あたりはすっかり静まり返っていた。石畳の道にコツコツと革靴の音が響いていた。

 

自宅へ戻った男は、鞄を下ろすなり冷蔵庫を開け、ピクルスとビール瓶を取り出した。最近は夕食など取らない。これでカロリー摂取は済ませてしまうのだった。瓶に入ったピクルスを皿にあけ、箸でつまむ。ビールはグラスにも注がず、そのまま飲むのが男のやり方だった。

 

食事を終えた男はネクタイを緩めながら地下室のドアへと向かった。ようやく一日が始まるのだ。重い扉をゆっくりと開けると少し埃くさいコンクリートの地下室が男を迎えた。ひんやりした床に裸足の足が無造作に踏み出された。男は扉に鍵をかけ、タバコを吸い始めた。煙を吸い込むと、肺の中に澱んだ空気が広がり身体に染み込んでいくようで男はそれを好んでいた。朦朧とした頭でふん、と鼻を鳴らした男は部屋の奥へ向かって歩き始めた。部屋には空のバスタブが置いてあった。男はバスタブの中に入り、力を抜いてずるずるともたれかかった。さあ、今日は何を考えようか――。

昔話

昔々、あるところにうさぎとかめがおりました。

 

うさぎは銀色のチョッキを着て、青いブローチを付け、真珠のついた金の指輪をしていました。うさぎは穴の中の家に住んでいて、いつものんびりとお茶を飲んだり、お掃除をしたり、森にりんごを取りに行ったりして暮らしていました。

かめは木でできた家に住んでいて、村の中での信望も厚く、あちこちの集まりにお呼ばれしたり、いさかいが起これば仲裁を頼まれたりと、いつも忙しくしていました。かめには大きなこうらがあったので、いつも家に帰るのに、家にはベッドがなくて、パジャマも着ずに大きなこうらの中で寝てしまうのでした。子どもたちはかめを見て「大きなベッドのかめさん」と呼んでいました。

 

うさぎは自分の畑で、銀色のにんじんを育てていました。立派に育ったにんじんを持って市場で売ったり、旅をしながらにんじんを売ることもありました。にんじんはよく売れることもあまり売れないこともありましたが、皆そのにんじんが好きでした。

ある日、うさぎの家にかめがやってきて、言いました。かめはうさぎの穴の家に入ることができないので、家の前で言ったのです。

「こんにちは。銀のにんじんをくれませんか。にんじんのスープを作らないといけないのです。」

うさぎは穴から出てきて、こう言いました。

「スープではなく、ケーキにするのはどうですか。」

かめは言いました。

「光るにんじんのスープを作りたいのです。わたしのおいの誕生日ですから、ケーキではなく、エクレアを用意するのです。おいはエクレアが大好きですから。」

うさぎは、かめがエクレアを食べている姿を想像して楽しい気持ちになったので、こう言いました。

「わかりました。スープにぴったりのにんじんがありますから、あなたにあげましょう。スープにはりんごのみつを入れることです。それでにんじんはよく光りますよ。」

 

うさぎは地下室に行って(穴の家ですから全部地下のようなものですが)、ぶら下げてあるにんじんの中から、とっておきのにんじんを選んで茶色の紙袋につめました。ほんとうは、にんじんは市場でしか売らないのですが、特別なのでリボンも付けました。

穴の外に出ていってかめににんじんを渡すと、かめはコインをいくつか払って、喜んで帰っていきました。

 

次の日、うさぎは市場に行って水晶玉を買いました。透明で、きらきら光る大きな水晶玉です。これで、畑のにんじんの様子が見れるなとうさぎは思いました。家に帰ると、かめが待っていて昨日のお礼にこんぶを3まいくれました。かめが、スープにいれるりんごの木の場所を教えてほしいと言うので、うさぎは教えてやりました。

(続)

「君たちはどう生きるか」は夢のような象徴的な映画

宮﨑駿「君たちはどう生きるか」を見た感想。

 

夢のような、象徴的で奇想天外で非論理的な映画だと思った。

様々な分析が出ていて面白く読んでいるが、私はすべてを具体的に理解することはできないと思う。もっと抽象的な問いやアイデア、葛藤、答えが詰め込まれている。作っている人たち自身、意識に上っていることも言葉にならずに漠然としていることも、すべてが象徴を通して表現されているため、頭で理解しようとしてもそれはかなわない。感覚やイメージやアイデアの奔流。

「下の世界」は作り手自身の内的世界であり、潜在的な領域なのだと思う。常識や論理だけではなく、突然降ってくるアイデアや複雑な感情、心理的コンプレックス、言葉にならない抽象的な考え、漠然とした疑問、こんなものが混沌と同居しているのが人間だと思う。それに何かしらの答えを出して生きていくのが「上の世界」での生き方なのだ。「上の世界」では受け入れがたいことが起こったり、自身の方針を表明する必要があるが、「下の世界」ではただそこで起こることを受容していく。それは自身の内的世界の旅だからなのだ。

そんな「下の世界」は美しく、瑞々しく、深く、しかしグロテスクで、傲慢さ、矛盾、自己中心的な見方も存在している。しかし逃げることなく、真っ向から挑み続ける姿に心の強さを感じた。

 

「清濁併せ呑む」という言葉がある。世の中には美しさも醜さも存在している。美しいものは皆進んで受け取りたがり、醜いものは避けようとするだろう。または自暴自棄になり、醜いものばかり集めて美しさは眩しくて見られない人もいる。人間は美しさを喜び醜さを見たがらないかもしれないし、逆に濁に囚われて美しさに挑むことができない弱さに陥っているかもしれない。この映画では主人公はあくまで「美しい」が、醜さを殊更に排除しようとせずむしろ積極的に描き出すことで、作り手の、自らの持つ醜さを認めようと奮闘しているのを感じる。

しかし我々は結局は美しさに向かって生きていかなければならない。醜さを吞み込みながら美しさに挑んでいくということが豊かな美しさなのだと思う。

日本音楽-能の歴史②(大成期~今日)

戦国時代から桃山期

豊臣秀吉の保護

応仁の乱以降の幕府の弱体化や寺社の衰退は、能に大きな打撃を与えた。大和猿楽においては新しい作品が創作され、一般民衆の支持にわずかに活路を見出したが、田楽も近江猿楽もほとんど消滅し、16世紀後半には有名大名を頼って地方へ下る能役者が続出した。(以後、能と言えば大和猿楽の能を指すようになる。)

豊臣秀吉は能の熱狂的な愛好家であった。自身でも能を舞い(金春流)、多くの「座」のうちから大和四座の保護者(パトロン)となった。以来、能役者は社寺の手を離れて武家の支配を受けるようになった。

 ※大和四座:観世(かんぜ)、宝生(ほうしょう)、金剛(こんごう)、金春(こんぱる)

この時期、豪華絢爛な桃山文化の隆盛を背景に、建築物としての能舞台の様式が確立され、装束も華美となり、能面作者にも名手が続出し現在使われている能面の型がほぼ出揃った。

 参照  能舞台の歴史 https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc12/rekishi/hideyoshi/butai.html

 能楽の面 https://www.nohgaku.or.jp/encyclopedia/whats/omote.html

 

江戸時代

幕府の式楽

徳川家康以下の歴代将軍も能を愛好し、四座一流(大和猿楽の四座に加え、新たに喜多流が認められた)が幕府の「式楽」と定められ、保護を受けた。能の中心は江戸に移って能役者の生活も安定していった。

また、地方の有力諸藩も幕府にならって四座一流の弟子筋の役者を召し抱えた。

 

多くの能役者は幕府の正式な儀式や将軍・諸大名たちの私的催しに出演し給与を受けていたが、同時に生活や芸事に関する厳しい監督も受けていたのであった。

能は新作をやめて古典芸能となり、世襲による家元制度に管轄され、シテ方ワキ方など分業制度が確立する。レパートリーも固定化し、曲目は「書上(かきあげ)」として幕府に登録された。

江戸期を通して技法は洗練され芸は高度に発達したが、その反面で創作は停止し、芸の固定化が進んだ。

 

謡の流行

能が江戸幕府の式楽となると、一般民衆が能と接する機会は少なくなっていった。

実際に能を見ることができたのは幕府の許可を得て各座の大夫が催す「勧進能(かんじんのう)」、将軍のお祝いの時に江戸城内に一部の町人を招く「町入能(まちいりのう)」といった特殊な場合に限られてはいたものの、町人の間で謡本(うたいぼん)が普及したことによって、「謡」が全国的に広まった。

 参照 https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc12/rekishi/minsyu/index.html

※大夫:猿楽座の座長。

※謡本:能の台本に謡曲稽古用の譜をつけたもの。江戸時代は素謡(すうたい)の流行に伴って、おそらく国文関係ではもっとも多量な出版物となった。謡曲の一節を集めた「小謡本(こうたいぼん)」などは寺子屋の教科書となるほど普及した。

※素謡:能の略式演奏の一つ。型、囃子を加えず、謡(能の声楽部分)だけを演奏すること。謡が能から独立して演奏・鑑賞・稽古されるようになったのは主として江戸時代以降のこと。江戸時代から素謡専門の師匠も生まれ、大いに流行した。現在も謡を稽古する人は多い。

   

参照 (動画)

“<きょうの能楽師>素謡「高砂」第1走者 → 片山九郎右衛門(京都観世会会長)(かたやま・くろうえもん)” https://youtu.be/vO3TIOwAVw0

 

近代

2度の打撃、能楽の広がり

明治維新によって保護者を失った能役者の多くは廃業、転業を余儀なくされ、断絶した流儀もあった。しかし、外国の芸術保護政策の影響を受けて、国家の伝統芸術の必要性を痛感した政府や皇室、華族、新興財閥の後援によって、能は蘇生する。

 参照   高田和文「能をめぐる文化交流-東と西、古典と前衛」

    http://www.ritsumei.ac.jp/~hidedoi/noh06_takada.pdf

また、室町・江戸時代を通して一般に用いられてきた「猿楽」の呼称は明治期に入って「能楽」と改められた。「能楽」の名は急速に普及し、「猿楽」の呼称は滅びた。

第二次世界大戦ではほとんどの能楽堂、かなりの数の後継者を失い、再び大きな打撃を受けたが、やがて復興した。

 

戦後の新たな傾向としては、

◆1954年以降能の海外公演が頻繁に行われるようになり、高い評価を得る。

 参照 the 能.com “能の海外交流“ https://www.the-noh.com/jp/oversea/index.html

  高田和文(?年)「能をめぐる文化交流-東と西、古典と前衛」http://www.ritsumei.ac.jp/~hidedoi/noh06_takada.pdf

◆女流能楽師が公認(1948)される。

薪能(たきぎのう)を称する野外能が全国に広まり、120か所以上の定着をみる。

 参照  佐渡汽船公式サイト “荘厳で神秘的な「薪能」の世界へようこそ” https://www.sadokisen.co.jp/?spots=takigi-noh

 (動画)京都薪能  https://youtu.be/8gk6AJAptYg

国立劇場能楽堂の発足(1983)。

 

1958年、能楽重要無形文化財の総合認定を受けた(重要無形文化財の制度は1955年に発足)。

各個認定(人間国宝)された能役者も数多い。

また、2008年にはユネスコ無形文化遺産に登録され、芸能としての歴史的価値が認められた一方、現代にも生きる演劇として歩みを続けている。

 

以上、能楽の歴史であった。

南北朝時代から現代まで演じ継がれている能楽(猿楽)は、世界で最も長い演劇生命と伝統を持っている。

海外でも注目され、西洋との文化交流が本格的に開始した明治以降、演技や演出などの実践的な面で能の技法を取り入れようとするヨーロッパの演劇人も多数現れた。国内外の前衛演劇を志向する者たちにも能は関心を寄せられた。

現在演じられている能の大半は伝統的な曲目であるが、新作の創作や実験的な演出が試みられたり、英語による能が演じられるなど、新たな広がりも見せている。

 参照 英語能https://www.the-noh.com/jp/people/sasaeru/011_englishnoh.html

 

 

《参考》

月溪恒子『日本音楽との出会い―日本音楽の歴史と理論』東京堂出版, 2010.

ユネスコ無形文化遺産能楽への誘い」https://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/noh/jp/history/history1.html

文化デジタルライブラリー 「能楽https://www2.ntj.jac.go.jp

能楽協会ホームページ https://www.nohgaku.or.jp/encyclopedia/whats/stage.html

the 能.com “能の海外交流“ https://www.the-noh.com/jp/oversea/index.html

日本大百科全書(ニッポニカ) 電子辞書版より  猿楽, 能, 謡曲, 謡本, 素謡,   の項。

 

 

日本音楽-能の歴史①(散楽~大成期)

能の歴史

奈良時代に大陸から輸入された散楽(さんがく)は、曲芸、軽業、奇術、歌舞などの雑多な芸能であったが、平安時代には滑稽な物真似が主流となり、猿楽(さるがく)と呼ばれ、時代を経て台詞喜劇としての狂言と、まじめな歌舞劇の能に分化していく。

今回は能楽の大成(室町時代)に至るまでの歴史を概観する。

 

大成前

能はかつて猿楽と呼ばれた。猿楽のルーツは外来系の散楽であるとされる。

 

散楽-猿楽のルーツ

散楽は奈良時代に中国から渡来した。

中国では民間雑芸の総称で百戯(ひゃくぎ)とも称され、器楽や歌謡、舞踊、物真似のほか、曲芸軽業、奇術魔法なども含む幅広い芸態をもつものであった。

日本では「散楽戸」が置かれ国家の保護を受けて演じられていたが、平安初期にこれが廃止されると、役者たちは各地に分散して集団を作り、多くは大きな寺社の保護を受けて祭礼などで芸を演じたり、あるいは各地を巡演するなどしてその芸を続けた。

散楽はやがて日本風に猿楽/申楽(さるがく)と呼ばれるようになった。

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[散楽図] 月溪恒子『日本音楽との出会い』 7.2 能楽の歴史 p.105
「散楽は滅びましたが、奈良東大寺正倉院に遺る『墨絵弾弓』などの散楽図(図7-2)を見ると、楽器の伴奏で演じる曲芸軽業的なものや奇術幻術的なものが主であったようです。」(p.104)

猿楽

平安・鎌倉時代に栄えた芸能で、散楽の芸系を受ける。

室町時代以後は現在の能楽の古称として用いられてきた。

 

平安時代に入って猿楽の中心は「笑いの芸能」に移り、平安末期の猿楽はことば遊びや物真似を主体とした滑稽な寸劇で、その発展したかたちが後の狂言である。

宮中でも演じられたが、主流は民間に流れ、職業的猿楽者が生まれた。

職業的猿楽者の多くは大きな寺院や神社などに隷属し、その祭礼などに奉仕していたので、密教的行法の中で従来は僧侶が行っていた芸能的要素の強い部分(呪師の芸など)を勤めるようになった。今日も別系統の演目として神聖視される「翁(おきな)」の原型である。

※呪師の芸:「じゅし」「しゅし」「ずし」などといわれる。

 呪師猿楽 …僧侶の勤める法呪師の行法の威力を一般参詣人に対して具体的に演技化して示したもの。

 華美な装束に兜(かぶと)をつけ、鈴や鼓を用いた軽快な歌舞であったようだ。

※翁:能の曲目。「能にして能にあらず」と言われ、どのカテゴリーにも属さず、物語めいたものもない。

 神聖な儀式であり、演者は神となって天下天平、国土安穏を祈祷する舞を舞う。

 (参照はこちらを https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_067.html)

 

さらに鎌倉時代に入ると、寺院での法会後の余興大会で演じられた延年風流(えんねんふりゅう)などの諸芸能の影響を受けて、猿楽は次第に、まじめな歌舞劇である能と、滑稽な台詞劇である狂言とに分離し、それぞれの芸態を確立していく。

鎌倉時代後半には多くの寺に所属した猿楽の座が、能という新しい歌舞劇を上演するようになった。

猿楽だけでなく農村の民俗から発展した田楽(でんがく)も能を演じ、芸を競い合っていた。

 

大成期

観阿弥世阿弥
南北朝時代(1336~92)になると猿楽は歌舞劇への傾向を強め、諸国に猿楽の座ができた。

なかでも大和(やまと)猿楽と近江(おうみ)猿楽が際立っていたという。
大和猿楽には奈良興福寺に仕える4座があり、その一つの結崎(ゆうざき)座から能の大成者として名高い、観阿弥(かんあみ)が出た。

観阿弥世阿弥父子らによって、猿楽は今日の能楽に近い姿に整えられ、能と狂言の交互上演の形式も定まった。

 

観阿弥(1333~84)は、結崎座(後の観世(かんぜ)座、勧世流)を創立した。

1374年初めて京都に進出、12歳の長男世阿弥(ぜあみ)とともに演じた能は、室町幕府の将軍足利義満に気に入られ、以後は絶大な後援を受ける。

座の属した大和猿楽の演劇性を基礎としながら、女性などの優美な役を得意とする近江猿楽や、田楽の歌舞性を取り入れて京都の貴族たちの趣味に合わせた幽玄な芸風をうち立てた。

観阿弥の功績》

・物真似主体の強い芸風の大和猿楽に、田楽や近江猿楽の歌舞的要素を取り入れて、幽玄な美を中心に置いた。

・メロディー主流だった大和猿楽の音楽(小歌節(こうたぶし))に、リズム本位の曲舞(くせまい)の技法を導入。

・大衆の興味を引く生き生きとした能を書く。

 

観阿弥の子、世阿弥(ぜあみ)は、父の成果を受け継ぎつつも能をさらに高度な舞台芸術に仕上げた。

世阿弥の功績》

・「夢幻能」のスタイルを完成した。

 夢幻能(むげんのう):能で、主人公(シテ)が、神・霊・精など超自然的存在のもの。

 全体がワキの見た夢か幻であるという構成になっているところからいう。(デジタル大辞泉 電子辞書版)

 主人公が旅人に物語や身の上を語る筋立ての形式。

・『風姿花伝(ふうしかでん)』をはじめ、21部におよぶ芸術論を著述し、後世に大きな影響を与えた。

・数々の名作の創作

 観阿弥世阿弥は優れた役者であるばかりでなく、多くの名作を残した。

 

世阿弥没後も、甥の音阿弥や女婿の禅竹といった名手や理論家が輩出されたが、その能は本質的には世阿弥の継承であり、この時代すでに能は伝統を守り育てる傾向を強めていたと言えるだろう。

観阿弥世阿弥という希有な人材を得て大和猿楽は高い地位を得たが、近江猿楽や田楽の能は次第に衰微し、やがて能といえば大和猿楽の能を指すようになる。

 

以上、能楽の大成期までを概観してきた。

歌舞物真似、曲芸軽業、奇術魔法など幅広い芸態をもつ散楽が奈良時代に中国から伝わる。

散楽は日本風に「猿楽」と呼ばれるようになり、内容も滑稽な寸劇を中心としたものになる。

南北朝時代の頃には、猿楽は歌舞劇へ傾倒する。

観阿弥世阿弥親子によって能は芸術的に大成され、今日に伝わる姿に整えられた。

 

 

《参考》

月溪恒子『日本音楽との出会い―日本音楽の歴史と理論』東京堂出版, 2010.

ユネスコ無形文化遺産能楽への誘い」https://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/noh/jp/history/history1.html

文化デジタルライブラリー 「能楽https://www2.ntj.jac.go.jp

能楽協会ホームページ https://www.nohgaku.or.jp/encyclopedia/whats/stage.html

日本大百科全書(ニッポニカ) 電子辞書版より  散楽, 猿楽, 能, 観阿弥, 世阿弥, 大和猿楽, 呪師  の項。

 

 

日本音楽ー能

能楽ー中世成立の楽劇

能楽・・・能+狂言

能→狂言→能というふうに能の合間に狂言が上演され、この2つを一括して「能楽」と呼ぶ。

 

能とは?

日本の伝統芸能

仮面(面)をつけた役者が、独特の抑揚をつけてコトバ(詞)を語り、演じ、舞う音楽仮面劇。

地謡(斉唱のコーラス)、4種の楽器による囃子に合わせて舞う。

 

能は文楽、歌舞伎と並んで、わが国の三大演劇と言われる。

しかしこれらは、音楽と不可分に結びついているため、単に演劇というよりは「音楽劇」「音楽舞踊劇」という方が適切である。

 

能舞台の構造

参考:能楽協会能楽辞典」より“舞台”(PDF)

https://www.nohgaku.or.jp/encyclopedia/whats/stage.html

舞台の特徴

◇幕がなく三方に開放されている。

 西洋の舞台や、近世に成立した文楽・歌舞伎の額縁式舞台と異なる。

  ※額縁式舞台:額縁のように3面の壁に囲まれている舞台。

         観客は絵画を見るように一つの方向(第4の壁)から舞台で行われていることをのぞき込む。

◇舞台装置をおかない。

 「作り物」と呼ばれる竹製の道具(山・舟・小屋など)をおくことがあるが、簡単なものであり、装置というより演技を助ける道具である。

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【画像】作り物「船」https://www.the-noh.com/jp/sekai/prop.html

 

◇長い橋掛り(橋懸りとも)が斜めにのびている。

 ここは登場・退場の通路だけでなく、様々な演出法に利用される。

 (例)・本舞台とは違う場面として使う

     ・シテが橋掛りに赴く間に舞台の場面を転換する など。

 この橋掛りは後世の歌舞伎舞台の「花道」へと展開した。

◇正方形の本舞台のさらに奥にアト座があり、縦に深い空間を形成している。

 横に広い歌舞伎の舞台とは異なる、独特の舞台空間であると言える。

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【画像】歌舞伎の舞台。 額縁式舞台であり、横に広い構造になっている。 手前、観客席の中を通っているのが花道。https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/modules/kabuki_dic/entry.php?entryid=1245

能楽の4つの「方」

能楽の役者は4つのグループのいずれかに属する。

このような分業制度は江戸時代に確立された。

シテ方:主役

ワキ方:シテの相手役、脇役

狂言方狂言を担当する。

囃子方:器楽演奏

①②③は役に扮して舞台に立つことから「立方(たちかた)」といい、演技・声・舞を担当する。

また、②③④をまとめて「三役(さんやく)」と呼ぶ。

 

シテ方

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【画像】シテ https://ameblo.jp/yukasikido/entry-12013407564.html

シテ方に属する役者は次のような仕事をつとめる。

◇主役(シテ)を演じる。

 老若男女から、鬼や神、亡霊などのあらゆる役に扮し、能面をつける特権を持つ。

◇シテに連れ立つツレを演じる。

 ツレ:主役のシテに付随して登場する役。

    お供の役も多いが、シテまたはワキに匹敵する重要な場合もある。

地謡(じうたい)

 通常6~10人で構成され、2列で座る。(狂言では3~5人が1列。狂言地謡狂言方から出る。)

 地頭(じがしら)と呼ぶリーダーの統率によってユニゾンで謡う。

◇後見

 舞台監督、世話役、進行の手助けをつとめる。

 

ワキ方

主役であるシテに対し、脇役をつとめる。

僧や神官、天皇のお使い、武士など。

室町末期からシテ方から独立し専門職となった。

現実の男性のみを演じ、女性や老人、神や鬼など異次元の存在に扮することはまったくない。

能面を用いることはなく、常に素顔(直面(ひためん))である。また、舞は舞わない。

 

囃子方(器楽演奏)

能の囃子は、四拍子(笛、小鼓、大鼓、太鼓の4種の楽器)で構成される。

 ※読み方:四拍子(しびょうし)、小鼓(こつづみ)

太鼓は曲によって入る場合と入らない場合がある。

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【画像】右から笛、小鼓、大鼓、太鼓。 https://serai.jp/hobby/83876

シテの謡や舞、あるいは地謡を引き立てる役割。

囃子に指揮者はなく、シテや地謡に合わせて演奏するが、シテのかすかな合図や地頭の微妙なタイミングを感じ取って、テンポに緩急をつけたり演奏を変化させたりする。

囃子(はやし)・・・

「囃す」は「栄やす、映やす」とも書くように、本来「映えるようにする、引き立てる」の意味で、手を打ち鳴らしたり、楽器を奏したり、「エンヤコラセー」などの囃しことばを唱えたりして、歌舞の調子をとること。

 

以上、「音楽劇」とも言うべき能の舞台芸術性に着目し、基本知識として

能舞台の構造と特色

・額縁式舞台と異なり、三面に開放されている。

・舞台装置を用いない。

・「橋掛り」が存在する。

・舞台は縦向きに深い。

 

◇4つの「方」とそれぞれの役割

シテ方と三役 

・能の音楽要素である地謡囃子方について

 

について解説した。

 

 

《参考》

月溪恒子『日本音楽との出会い―日本音楽の歴史と理論』東京堂出版, 2010.

文化デジタルライブラリー 「能楽https://www2.ntj.jac.go.jp

能楽協会ホームページ https://www.nohgaku.or.jp/encyclopedia/whats/stage.html